SATOSHI MURAI SOLO EXHIBITION

“BLESS YOU”

 

2021 2.27 sat. - 3.7 sun.

ANAGRAではSATOSHI MURAIによる個展”BLESS YOU“を開催致しています。

https://www.anagra-tokyo.com/bless-you

村井は現在東京を中心に活動するアーティストです。ANAGRAでは2度目の個展となります。前回の展示は自身の描く深層心理的なビジュアルイメージと向き合ったものでした。娘の誕生を経て、音楽、映像、ビジュアルイメージ、インスタレーションなど、自身が今までに創って来た様々な手法が混じり合い、今回はより自らの、他者の「死生観」に向き合った個展になっています。

展示が始まり作品に囲まれ数日が経ち、村井くんに聴いて見たいことがたくさん増え他ので、展示を観ただけではなかなか知り得ない村井くんの制作に向かう姿勢や生き方の話を少しだけ聞いてみました。

死の山、偶然の神さま、読まれたくない手紙 

 

<ステートメントより抜粋>

 

世界が一方向の苦しみに、喜びに覆われるほど「別の目的地」を僕らは求めてしまう。 でも、あそこもココも、また別のあそこも、どこかとどこかの中間なのではないか? と思ったりする。

 

あの山にもこの山にも神さまはいて、その中間にまた知らない神さまがいて、僕らに別の世界を、楽園を、極楽を見せる。他方、中間に立つ人間には、神さまは居ないのか?人知を超えた存在にひっそりと祈ることも出来ないのか?と思ったりもする。

 

そうこう考えていると、とにかく皆が救われて欲しいと願うようになった。いったいどの神さまが救いのビジョンを差し伸べるのか、僕は神さまではないので全くわからない。

 

こんなことを記したこの文章は読まれたくない手紙ではあるのだけども、もし、万が一、 ”あなた”に行き詰まる時がくるなら、天国や極楽を目指す一本道を歩く中で、辛い現実から逃げ出したくなるなら、目的地の山の頂上に死が待っているなら、その時は切実に想像して欲しいと願う。きっと別のルートもあるはずだ、ということを。そして思い出して欲しいのだ。 ”あなた”の神さまの持つ人知を超えた心の広大さと、周りに存在する小さな人間の愛と、この世界はほとんどが「中間 / 中腹」であるという想像力を。

 

もうすぐ三歳になる娘は、節分の時の鬼がよっぽど怖かったのか「福の神さま、早く寝たら来てくれるの?」なんて僕に聞いてくる。「そうだね、きっとくるよ」と僕は迷わず答える。風呂上がりのせいか、小さくくしゃみをしながら。

自己紹介をお願いします

村井智です。アーティストと音楽家と映像ディレクターやってます。

作風を教えてください

作風はメディアによってそれぞれなんですが、数年前からは「あるかもしれない&あったかもしれない」モノやコトを意識しながら絵を描いたりスキャンして破壊したり出力したり、映像にしたりして作っています。最近はそこに具体的に光、稜線、炎などを組み合わせてイメージ作るようになりました。

 

作品を作る工程を教えてください

インスタレーションはアイデアを思い付いたらそれをどうやって作るかを順にやっていく感じですが、ビジュアルイメージについては思いつくままに絵を描いて、それをスキャンしたり、どんどん削ったりボカしたりを繰り返す感じです。コラージュしているような

 

活動するにあたり一貫したコンセプトはありますか?

ここ3年くらいを振り返るとさっきも書いたような「あるかもしれない、あったかもしれない世界」に興味があるんだなと思います。生きてると⌘Zしたい事がなんかたくさんあって、でもそれは出来ないのでという意味でも。あったかもしれないコト、あるかもしれない世界への想像力を呼び起こす作品を作りたいです。

 

音楽との共通点(コンセプトなど)はありますか?

munnrai名義の音源で言うと自分の作品だなってなる音楽って自分から出てきたのか?ほんとに?ってなるやつだったりして、そこもいるかもしれない自分ってのがそこに現れてきたら良いなってのはあります。なので使用機材の影響をモロに受けたいといつも思っています。絵の具とかは普遍的なクラシックな画材ですけど、そこにその時その時の画材、今回で言えばPhotoshopのフレスコってやつだったり、なんかオススメされたブラシだったり、そういう普段別の仕事で使ってる画材はちゃんと入れたいなと思ってます。~職人みたいにはなりたくないというか どんどんメディウムは変わっていって欲しいと思ってるので。これほんとにおれが描いたのか?!ってなりたいんですよね。良いライブしたな~ってときもそう。酒がぶ飲みしてフラフラで慣れてない機材でやったやつが良かったりとかする。それで大失敗も多いですが

使用する色が原色が多いように感んじますがなにか理由はありますか

強い色が並んでぶつかったり、境界が滲んで濁って弱くなっていくのを見るのが好きです。ブラウン管バグらせたりするのもそういう嗜好から来てるのもあると思います。あと昔からすごい具象的に描くにしろ最初に原色で前後感とか作ってたんです。ここは目立たせたい、ここは引かせたいみたいな。そっからどんどん具体的に中間色作って描いていくんですけど、最初の段階の方が勢いあって好きなんだよなーってずっと思ってました。それです

 

 

音楽もやっている傍ら、絵を描く理由なんですか?

また、絵で表現できて音楽ではできないことはありますか?(逆も然り)

なんでですかね?好きだから、といえば一番素直な気はするんですけど、結構今回の展示のテーマに通じるとこもあって。昔から両方をやってたからそんなに僕的には違和感は無いんですけどやっぱ思春期あたりは「一個のことを突き詰めないと中途半端な大人になるぞ」って画家の人とか美容師の人とか周りの大人にすごい言われたんですね。それに無茶苦茶ムカついたりしてました。その人らに限らず「一個のことやってれば大丈夫信仰」みたいなのってあるじゃないですか。それに対する反抗っていうのはずっとあります。もちろんイチローみたいに一個のこと突き詰めている人には大リスペクトは基本的にあるんですけど、だからといってそうならなくても良くて他の山に登ってみたり、回り道とか別の場所とか意識したりでまた違った視野を獲得出来るのは間違い無いなーと僕は思っています。少なくとも僕にはそれが向いてる。

 

絵で表現出来て音楽で表現出来ないことは…やっぱ音楽だとポートレート作れと言われても抽象的にならざるを得ないし、この風景を描けと言われてもまた心象風景的な音になってしまうかもですね。絵でこのメロディを演奏しろと言っても出来ないだろうし。そう言われるとチャレンジするのも面白いかもなーと思いました。絵で出来ることを音楽でやってみるってやつ。音楽だとどれくらい"音楽"にするかでまるっきり変わりそうな感じはしますね。扱う情報の種類が違うから、補い合いつつ出来たら良いすけどね。

「中間」という言葉がステイトメントに登場しますが、このコンセプトに至った経緯をおしえてください

宗教に限らず一つのことを信じて救われるっていうのは素晴らしいことで、救われている人がいるのももちろん知っていて、周りにも身近にもそういう人は沢山います。でもたまにその一つの道を信じすぎるがあまりにどんどん孤独になったりするってのも最近は沢山見るようになって。僕は昔わりかし軟派なHIPHOPバンドとかもやったりしてて、ガチガチのHIPHOPを志向する友達から「HIPHOPじゃない」とか「ぬるい」とか言われたりして「あ~そっか~まあ仕方ないよな」とか思ったりしてました。でもその友達は突き詰め過ぎて病んじゃったり、他にも辛くなって辞めちゃったりて人を見たりしてて。その時にゴルゴタの丘で最期にキリストが叫んで処刑される絵を思い出しました。神さまなんで自分を見捨てたんですか?っていうやつ。で、両親はキリスト教ですが僕の地元は広島で浄土真宗が根強く残る場所で、そこでのエピソードを調べてるとまたそういう信心の先に死が待っているエピソードが出てきて。やっぱり友達や家族にはそうなってほしくないって気持ちが出てきたんです。キリスト教で言うところの逃げたヤツ、裏切ったヤツ、それもまあ命がかかってたなら別に良いじゃんって思ったんです。

 

でも信仰心の厚い人にはそれを直接伝えると傷つけてしまうので、それはそれで嫌で。だからその信仰心の到達点だったり、信条を山に例えて、中間地点とか、あの山でもこの山でもない別の山って存在があるよね、おそらくそれを信じている人もいるし山を登ったり降りたりしてる人もいるよねっていうのをせめて思い出して欲しい(孤独になりそうな時、死が直面しそうな時に)って思ってステートメント書いて、作品を作りました。

 

2年くらいずっとこの事を考えていました。インターネットとか見てても最近はそんなことを感じる事が多いです。僕も信条的に許せない政治家とかめちゃくちゃ多いし、支持する人たちのことは理解できないぜーって思ったりしてキツいこと言ったりしちゃうんですけど、でもそういう状況に追い込まれて、そういう視野になってしまってる人たちのことを想像しなきゃダメだって思ったりもしてきてて。考え方違う人みんな殺したら平和になるかっていうとそうじゃないよなっていう。だから僕みたいなやつが出来ることは中間点がいっぱいあるんだよって言ったり、そうじゃない救われ方だってあるはずなんだよって提示していくしかないなと。

 

めちゃくちゃ平たく言うと、多くの人が知らない人の知らない信条や信仰をもっと想像出来るようになったら今よりだいぶ平和になるのかなっていう気持ちでこの「中間」ていうのを使ってます。でもまあ言っちゃう時もありますけどね、その考えは違う、とか。あと友達が傷ついてたりしたら友達を全力で助けたいし、相手のやつ許せん!ってなりますけどね。自分で言っててもそこは難しいです。明らかに間違ったことをしてる人にはどう伝えたらいいのか、とか。ほんと難しい。でも出来るならばその人も中間地点や他の山が無数にあるってことを思い出して欲しいな、と。そんな感じです

 

 

前回の展示が絵画的だったことに比べ、今回の展示では地下を使用したり、インスターレション的なアプローチがありますがなにか理由がありますか?

これもぶっちゃけると、そもそもグラフィックとかビジュアルイメージはずっと作ってきてたけど、絵画ってものに全然触れてこなかったからリアリティが全然無くて。高校生の時と受験生だった時だけですねよく思い返せば。

というのもあり、全部自分にとってリアリティがあるやり方をしよう、とアレから思うようになって表現方法も使うメディアも都度考えるようになりました。油彩を使ったアニメーションとかは作ったりしていたけど、それも絵画を作ろうとかいう意識は無かったから、今回もそれは無くて、あの時は思いつかないから「作品と言えばキャンバスでしょ」でキャンバスを使ったってだけでした。今回は結構明確にこういうモノを作りたいってイメージがあったので建材を使ったり、折り鶴の再生紙を使ったり、木を切ったり、フォグマシン使ったり、別会場で沢山ブラウン管並べたりってのを最初のイメージ通りに遂行して行った形です。

 

これは秋くらいに田中功起さんから「アーティストはプランが出来たらそれを真っ直ぐに実行していくだけだよ」と言われた影響もあります。僕はそこらへん素直なので、おっしゃ、そうしよう!と。その結果ですね

 

 

今回のモチーフの「山」はどういった意味合いがありますか?

上でも書きましたが、信仰の到達点とかその人その人の信条の象徴、イメージとして山を使っています。頂上に死が待っているなら一回他の場所のことを思い出して欲しい、という意味です。先日サエボーグさんから「これは"類推の山"のことだね!」と言われたんですが、それもあるかもなと思います。原文は読んだことないですが、一昨年のRebornアートフェスティバルの網地島でみたフィリップパレノの「類推の山」を観てえらく感動したので、その影響もあるなと。あと僕が広島の山に囲まれた所で育ったのも関係するかもですね。なんか「あるかもしれない、誰かのイメージする山」ってモノに納得したんですよね。なんだか

SATOSHI MURAI|村井智

東京在住の映像ディレクター、音楽家、アーティスト、munnrai。
これまでデザインユニットTYMOTEやHIPHOPバンドALTで活動してきた。

京都/大阪を中心に活動するロックバンド「bed」の音源ビジュアル制作や、
短編アニメーション「忘れたフリをして」の総合演出や劇伴、YoutubeOriginal「のんたれ」アニメーション演出や劇伴、
KREVA「敵がいない国」、王舟「Lucky」、石野卓球「Rapt In Fantasy」等のMVを演出するなど活動は多岐にわたる。

https://open.spotify.com/artist/70ZicarIyK20XFEHr5D3gP?si=2HMZn0dUQQ6fg24qvZr7hA

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